新しい技術が発生すると、知らない人ほど「悲観」と「楽観」の両極端に振れる傾向があります。
AIそのものは何十年も前から存在していましたが、技術レベルが低かったためにそれほど期待は大きくありませんでした。
それが1990年代後半のドットコムバブルの時期に、コンピュータやネットワークに対する期待が膨れ上がったのです。
今ではネットでポチポチっとモノを買ったり、旅行の予約をすることは当たり前です。
しかし当時は新しく、斬新な世界でした。
アマゾン・ドット・コムが米国で一大旋風を巻き起こしても、「日本はカード社会じゃないからEコマースは普及しない」という人がいたぐらいです。
それと同時に、コンピュータが人間の職を奪ってしまうことに警鐘を鳴らす人々もいました。
ドットコムバブルが崩壊した後も情報技術は着実に、そして飛躍的に進歩しました。
その波にうまく乗れた人は巨万の富を得られます。
逆に仕事をコンピュータに奪われてしまい、収入を得られない人々もいます。
ただでさえ大きい格差がさらに拡大し、いっこうに縮まる様子はありません。
それどころか、ますます加速しそうなのです。
ある種の人々は、かたくなに情報技術を拒みます。産業革命の時に「機械が俺たちの職を奪った!」と機械を打ち壊して回ったラッダイト運動のように、技術の進歩に逆らう人々もいます。
あるいは逆に、「政治などの意思決定を、すべてAIにやらせたら良い」と提案する人もいます。神を見つけた宗教家のように、共産主義を見つけた思想家のように、万能の解決策を発見したつもりなのでしょう。
しかしおそらく、それはうまく行きません。
神の言葉を伝える聖職者のように、国の財産を管理する共産党幹部のように、AIをメンテナンスする技術者が強い決定権を握ってしまうからです。
AIに過剰な期待を抱いてしまうと、盲目的にその判断を信じてしまいます。その判断が狂っていても、「中の人」が好き勝手にものごとを決めても、疑うことなく従ってしまうのです。
AIの皮を被った独裁者が、人々を家畜のように扱う未来が来ないとは言えません。
それを防ぐためには我々がAIの可能性と限界を知り、二人三脚で走って行くしかないのでしょう。
AIに過剰な期待や失望をすることなく、人間も一緒に進化しなければならないのだと思います。
(終)