チュニジア革命の物語、後半部分をお届けします!
**************************
革命哀話 -小さな国の健気な物語 - (後半)
<その4 ナイラが恋人に宛てたメール>
「愛する私のヤスミ、
あなたのいるフランスでも大きなニュースになっているでしょう。モハメッド君の焼身自殺から始まった抗議運動がついにここ四、五日前から私のいるチュニスでも始まっていること。大勢の人達がブルギバ通り(チュニジア初代大統領の名が付けられている首都の目抜き通り)に出始めたわ。私も参加しているの。最初は両親は危ないから絶対そんなところに行くなと何度も叫ぶように言っていたのだけど、今は余り言わないところを見ると、私がこっそり街に出てデモに行っていると云うのを知っているのでしょう。両親はあなたがフランスにいる訳はもうとっくに知っているの。そして何故チュニジアに帰って来れないかと云うことも。でも去年一度危険を冒して帰って来て呉れましたわね。パスポートでは別の人間になり済まして。ああっと!こんなことをメールすると秘密警察がまた嗅ぎ付けるかも知れないわね。でも、もう構わないのよ。皆メールで連絡を取り合っているのよ。警察はもう全部のメールなんかチェックする余裕なんてない
のよ。でも、私達の動きが失敗したりするととてもヤバクなるんだけど、もう皆、どうにでもしてくれと云う気持ちで覚悟を決めてやっているの。
あなた知っている?私の友人のサミラ。彼女は家庭が裕福でなかったから私達のように大学には行けなくて、高校出た後すぐ観光関係の会社に就職していたでしょう。私達より頭の良い子だったわね。とんでもなく面白いことを言って皆を笑わせるんだけども、それが時々凄く核心をついたことを言う子なのよ。彼女が言うには、私達の国、チュニジアと云うのはヨーロパの“娼婦”なんだって。何故かと云うと、ヨーロッパの人が皆私達の国に遊びに来てお金を落として行くでしょう。国は喜んでますます私達の魅力的の肢体を見せようとて、あちこちにリゾート地帯を作って客を呼ぶ。勿論、リン鉱石以外は余り資源のない私達にとっては、観光資源収入は有難いのだけれど、私達の国に来てくれる人は大概海沿いのリゾートで過ごし、ちょっとだけカルタゴの遺跡や南のオアシス地帯を覗いて帰って行くだけでしょう。産業だって皆ヨーロッパの会社の下請けをやっているだけじゃない。私達の国に住んでいる人達の様子をもっと知って仲良
くなりたいとか、そんなことなど全く頭の中にないでしょう。全く一時の慰めの為に来ているだけでしょう。それに、そんなリゾート地帯の豪華ホテルの運営や、開発には皆あの、例の“カルタゴの美容師”(“カルタゴの美容師”とはベンアリ大統領の二号妻で、以前首都チュニス近郊のカルタゴ方面で美容師をやっていたところから、人々は陰で皮肉を込めて付けた名前)一家が牛耳っているでしょう。
大統領とその兄弟たち、最初の妻と間に設けた子供三人に“カルタゴの美容師”の子供三人、兄弟10人、合わせて30人位になる近親者グループは、言ってみれば娼婦の“ひも”だと云うの。そんなことを身振り手振り、巧い表現を使いながら言うものだから皆大笑しちゃうのだけど、考えて見ればもし私達チュニジア人が自尊心や誇りを持てなく、何時も“ひも”達に恐れてびくびくして言いたいことも言えないとすれば“娼婦”と云われても仕方ないわね!彼女の言うことは当たっているわ!
それに彼女の男友達の仲間の一人モハメッド君、カルタゴの遺跡に近い大きなホテルでボーイさんとして働いている彼、頭がおかしくなって精神病院に入ったのですって。安給料で朝から晩まで働いて、たまには疲れでちょっとお客さんに不快感を与えたりすることもあるでしょう。それでその客がホテル側にクレーム等をすると、後でホテルの支配人に呼ばれてこってり絞られた揚句、“仕事を欲しいのはお前だけではないのだよ!”なんて脅かされるのですって。優しい真面目な彼、温和な顔ににっこりする笑い顔が皆から好かれていたのが、何時の間にか顔が突っ張った感じになり、そんな顔に妙に不自然で無理した作り笑いを重ねているものだから、最近の彼の笑いの表情が何だか不気味な感じに変わって来ていたのですって。ああ可哀そう!!モハメッド君にはまだ学校通いの若い兄弟たちがいるでしょう。仲間友達で皆で彼の家族を助け合っているのですって。」
<その5. ヤスミからナイラ宛て返信>
「愛する私のナイラ、
君のメールが今届いたよ。多分君は2-3日前に送ったものだと思うよ。回線が切られていたのだろう。他の友人たちからのメールも遅れているからな。こちらのテレビ報道でも刻々と動いているチュニジアの様子を見ているよ。皆頑張ってベンアリをかなり追いつめている様子だな。君、大丈夫だろうな。僕の分まで闘って欲しいと云う気持ちと、君の身の上が危なくないかなあと云う心配が交錯して複雑な気持ちでいるよ。こんな時に、何故僕が現場にいないのか、良心の呵責に悩まされたりして夜もろくに眠れないよ。尤も、危うくなってフランスに逃げて来た僕なんだから、国に居たらとっくの昔に牢獄に入れられていた事だろう。何れにしても皆と一緒に街に出て戦うことが出来なかった身だと思って自分を慰めているよ。犠牲になって倒れた仲間達の数も増えているようだな。本当に君のことを心配しているよ。こう言っては何だが、余りにも前線に出てブタ公のやつらと直接やり合うこと等ないようにね。ブタ公達との格闘は男たちの仕事だ。君は一歩も二歩も下がったところで戦って呉れよ。それでも危ないかもしれないがね。
こちらで見ている限り闘いは我々のものだ。もうすぐだよ。警察は完全に敵だが軍隊はどうも味方してくれそうだな。彼等が最終的に我々側にいて呉れたら勝ちだよ。アルジェリアなどと違って我が国の軍隊は良識を持っている筈だし、それにトップの将軍たちも余り汚職等に手を漬けたりしていないようだからな。実際彼等は今まで君たちに銃など向けたりしていないだろう。軍隊を信じよう。そうすれば必ず勝つんだ。
大統領一家や二番目のバカ2号さん“カルタゴの理容師”が貯め込んでいる財産は凄いそうだよ。こちらの新聞では解かっているだけでも大統領家族一家の資産が50億ユーロ、“カルタゴの理容師”家族名義の資産が120億ユーロだと云っているよ。それに大統領は金塊を1トン半も隠し持っているそうだよ。国では職を持った者でも、月100ユーロの生活で皆忍んでいるのに、本当に奴等はどうもし様のない悪人等だな。
君の両親、家族の人達も皆元気でいるか。僕も近いうちに堂々と国に帰れる身分になれることを信じているよ。
そうしたら、お互いに誓った約束を果たそうね。 僕のナイラ!!」
<その6.ヤニアが親しい友人に打ち明けた話>
「可愛いナディア、
今日、私は久しぶりに泣いちゃったよ。嬉し泣きなのよ。こんなに感動した事は最近ないわよ。聞いて頂戴、私の話を !!
あんた覚えている?5年ほど前に私が父親と大喧嘩したということ。私が大学へ行くのが嫌だと云って父親にかみついた話をさ。あの時は、私も若かったけど、みんな大学に行ってもその後の就職先も難しいし、仕事から帰って来たばかりの父親に、大学に行きたくないと漏らしたら、父親が激怒した事、これが私の父親だったの?と疑わせるくらいに怒気満面で荒れた様子で私をしかりつけるの。母親もびっくりしてただおろおろしていただけだったわ。何時もの父親は、本当に優しい、優しいお父さんで、私も大きくなるまで、大声で怒鳴られたと云う記憶は余りなかったの。その日の父親の凄い権幕は余りにも恐ろしく見えたので未だにあの場面が忘れられないの。
でも、今日デモから夜遅く帰って来たらお父さんが心配そうに私をみて「大丈夫か?」と声を掛けて呉れたの。若い女の子が連絡もせず夜遅く帰りようものなら、両親からこってり絞られるのが普通なのが、今日は両親とも不安そうな顔をしていたものの帰って来た私の顔を見て、二人ともにっこりと優しい顔を見せて呉れたの。それでお母さんがジャスミンティ─を用意して、お腹もすいただろうと云ってお菓子を出して呉れたりしたの。こんなに遅く帰った理由は二人とも何も聞かなかったわ。
そのうちお父さんが何か急に神妙に顔をして言うには、「あの時は悪かったな」と云うの。私は一瞬何のことかとためらったんだけど、お父さんは「5年前にお前をきつく叱りつけてしまって悪かった」と云うの。私は「何~んだ、昔のことを言っているの」と云ったら、お父さんが更に神妙な顔つきをして「実はなあ、」と話を切り出すの。それでお父さんの話と云うのはこんな事なのよ。
私の父親はあなたも知っているように不動産業をやっていたの。いや今でも余り景気が良さそうには見えないけどやり続けているの。
私、小さいころのお父さんの仕事の事はてんで解からなかったけど、でもなんとなく生き生きと仕事していた印象を持っているの。しばしば帰りも遅いお父さんだったけど、私達4人の兄弟と幸せな家庭の雰囲気の中で過ごしたと思うの。お父さんが云うには、私を凄く叱りつけた日は“特別の日”だったんだと。
その日、父親のオフィスに建設省から来たと云う如何にも官僚風面の人が付き添いの人を連れて訪れて来た。建設省からと云うので丁重に応対し、お父さんは自分のやっている仕事の内容の事を全部正直に話したの。そのうちに、付き添いの人が話をし出し父親の会社が順調なので、父親の会社に1枚加わらせて呉れないかと切り出して来た。そんな話が始まった時点で建設省の人が先に席を立って帰り、後はその付き添いの人と話をすることとなったと云うの。実は付き添いの人は建設省の人ではなく、自分は大統領筋ともコネがある“実業家”だと名乗って来る。よく彼の話を聞いていると、要は父親との会社に資本参加、しかも半分以上の資本を取得したいと云うことであったと云う。父親は色々な人から、大統領一家が良くこんな手口で会社を乗っ取りに来ることがあると云う話を聞いていたが、まさか自分のところまで来るとは想像もしていなかった。そこで、父親は自分は色々やっているがみな儲からない小さい取引ばかりで、こんな会社に入って貰っても、利益にはなりませんよ、等と云いながら、この実業家の話を断わろうと精一杯押し返していた。そしたら次第に
実業家氏の表情が険しくなり、実はあなたのことは財務省や司法省も注目しているのですよ、と意味ありげに、そして不気味な顔つきで父親を上から見え据えるような恰好をして来たんですって。それで、父親は最後にはそれでは前向きに考えさせて下さいと云うことを言って一旦引きさがって貰ったと云うの。父親は大統領や2号さんの“カルタゴの理容師”ことトラベルシ一族の他人のビジネスへの介入のやり方、常套手段等に付いてあちこちから話を聞いていたので、ここで無駄な抵抗はしない方が良いと判断したと云うの。
そんな事があった為にいやな気持で家に帰ったところに、私が大学に行かない等と云い出したものだから、ついカッとなって怒ったのだ、「悪かったね」と少し涙ぐんだお父さんを見て私は泣いちゃったの。お父さんの腕の中で二人で泣いたのよ。小さいころよく抱いてもらった時に感じたお父さんの温かい体とやわらかい匂いが更に涙を誘ったわ。」
<その7.革命成就の瞬間>
その日、1月14日、金曜日。首都チュニスの街の喧々錚々たる姿は、これが「革命」と云うものだよ、と後世の歴史家達は情熱を込めて書き綴ることでしょう。
「どけ!ベンアリ!!」、「消え伏せろ!!ベンアリ!!」のプラカードがあちこちに立つ。初めの頃の「仕事をよこせ」、「パンを食べさせろ」のスローガンは最早少なく、今はベンアリ大統領打倒一点に集中。ここで彼を倒さねば、やがて必ず仕返しを受けると考える人々たちは必至で叫ぶ。
大勢の人の中に混じって髭面のきちんとした身なりの聖者風の者が何やら突然コーランの一節を叫ぶように高々声を上げる。
傍にいる一人の若者が彼を叱りつける。でもその叱る表情には優しさが籠っている。
「こらこら!! これはおれたちの革命なんだよ。君の様な髭面達の革命ではないんだぜ、さっさと隅の方に引っ込んでいて呉れよ!!」。きつい表情していた周りの人達の表情が一瞬笑い顔に変わる。
革命が最高潮に達する時には色々な麗しい事がおこるものなのです。大統領が堪らなくなって妻と共に一足先に飛行機で亡命先を求めて発った後、その取り巻き家族たちが次の亡命飛行機を望む。しかし、日頃大統領一家に忠実なパイロットたちが、その時はきっぱり拒む。パイロットたちも大統領一家が私腹を肥やしていた事を知っていたからなのです。
最初から民衆の運動には介入せず、純粋に治安のみに徹していた軍隊、その最高司令官は民衆に見方をした。
やがて、大統領の国外脱出のニュースが伝わる。
「自由万歳!!」、「ボンジュール リベルティ」の叫びが街一帯にこだます。人々の決死の覚悟を決めたきつい表情が、次々と笑顔に変わって行く。抱き合い、泣きあい、天に向かって自由の叫びを発する。
人々は「アラブの初の革命だ!」、「アラブが生きていることを証明した」、「これはべルリンの壁崩壊だ」と口々に叫ぶ。
「小さな国民が不正義に立ち向かい、勝利を勝ち取った」、「軍隊は警察隊の武装解除を強要した」、「我々の勝ちだ、我々は自由だ、そうだ自由なんだ、昨日までの圧殺はもう終わったのだ」、「こんな喜び信じて良いのだろうか?!」。
<その8. 牢獄から出て来た人達>
革命成就の翌日から、次から次へと政治犯たちが彼等が閉じ込められていた牢獄から出て来ました。そして、彼らは少しずつ口を開くようになりました。口を開いた人の証言をここで皆書き綴る事は出来ませんが、ここに二、三人の証言を紹介しておきます。
証言1.アブデラマン・チリ 68歳
「(後から知った)革命の日より三日後に刑務所を出た。“荷物を纏めて出なさい!” と云われた。一旦躊躇したが、後に残っている若い者たちの事を思って涙を流した。“公共材の横領と職権の乱用”の科で7年4カ月の禁固刑を受けて服役中だった。私は国立港湾局の所長を務めていた。父はチュニジア労働組合の活動家で私はその関係から1988年に民主連合と云う小さな政党の書記長をしていたが、この政党は選挙で0.23%の投票率で国会に数議席持っていた。この小党はベンアリ大統領承認済みの政党でもあった。数年前に身に覚えのない、またその後裁判も無く、証拠もない“公共材の横領と職権乱用”で監舎入りとなった。事は2004年の選挙が近づいた頃に起こった。自宅の前でいきなり襲われ、死ぬほどの乱打を受けた。家族を巡る不気味な事件が次々に起こるものだから、私の妻は恐ろしくなり精神撹乱で自殺。カタール国の大使をしていた妻の兄が本国召還を受け辞任。全て何がなにか解からないうちに起こってしまった。弁護士も無く、牢獄では結核性腫瘍を持っていたが治療拒否された。」
証言2.オマール・アデラゼック37歳
「私はお菓子屋さんの店員だった。私生活では特に何処かの組織に属していたわけでもない。ただしばしばモスクにお祈りには行っていた。2009年の4月12日、突然逮捕されて折檻を受けた。要は私にスパイになれと云うもので、それを拒否したのでしごかれたのです。警察はそのうちに私の家で組織(イスラム過激派)の宣伝用CDが見つかったとして偽のCDを見せつけて来た。しつこく私の下腹部を叩く等の仕打ちを受けて、しようにもしようのない“白状”を迫られるのです。弁護士も裁判も無いままあちこちの監舎をひき回された」。
証言3.アリ・ララエディ 43歳
「第一次ガルフ戦争の頃、私は学生でイスラミストの“エナダ”と云う組織に加盟していた。1991年デモに参加した為、騒擾罪の科で軍事裁判により15年間禁固2回に、18年間禁固、計3回の判決を受けて服役。あちこちの監舎に回され、合計23か所の牢獄で過ごした。一度私の妹が私のいるところを探し出して見舞いに来てくれた。私の前で監視人達は彼女のチャドール(髪覆いスカーフ)をひき取ったりしながら卑しい言葉を吐いたりして彼女を罵倒したりしたので、私は彼女に引き返すように言った。その後、私は十数人の者から殴る、蹴られる等の折檻を受けた。そして冷たい独房に入れられた。そこは非常に寒かったがそんなところで20日間過ごした。特にガベス(チュニジア南方)の監獄は恐ろしいところで、気が狂いそうなところ。頭がおかしくなって一人で笑ってみたりしたものだ。15年間待っている許嫁の手紙が届いた。監視人はそれを私の前でちらつかせながら、色々教えて呉れたらその手紙をお前にやってもいいよ等と云って私を責めた。私はその後ハンガーストを行った。後で私の許嫁が耐えられず自らの命を断った事を知らされた」。
以上の事は私達の国で起こった革命にまつわる話です。告白者達の立場もありますので登場人物の名前は仮名を使ったり、話を多少フィクション風に書き換えたりしていますが、これを読んでいただいた皆様には、私達アラブの小さい国で起こった小さい革命がどんなものであったか少しでも知って頂けたらと思います。そして、広い世界いたるところでは、まだまだ世直しするところが多くあるのだと云う事も解かって頂ければ幸せです。
-チュニジアのある女性の手記より-
(以上はフィクションではありますがチュニジア革命の現実から大きく離れているとは思いません
-筆者)